モルグ街の殺人(既読)

エドガーアランポーの「モルグ街の殺人」を読み終えました。

小説を読むのが実に久しかったので複雑な人間関係とか証言内容とか把握するだけでも精一杯ですね。最後の推理シーンを読んで初めて状況を把握できました。ちなみにそこそこグロテスクな内容でした。

中学1年生の頃はまっていたシャーロックホームズにも何となく似ているな、と思いました。どちらも、与えられた最小限の手がかりの中から最大限の情報を引き出す、凡人には到底理解しがたい分析力を持ち合わせているのですね。一方、ネタばれになるとアレなので詳しくは書きませんが、物事を分析するには必然的に知識が必要になってくるものですね。そう言えば塾講バイトの研修で「知識を問う問題は完ぺきなのに思考力を問う問題は全くダメ、っていう生徒はいますが、不思議なことにその逆はいないんです」と言っていたのを思い出し、納得しました。思考力というか分析力を発揮できるのは、その前提として知識の量も豊富だからなんですね。

やはり、より深い思考や洞察には、必然的に知識や経験が必要であることがよく分かりました。

 

というわけで前回の記事の続きですが、この小説に例の2つの評価を当てはめてみると、

優秀な人=警視総監

ずごい人=デュパン

という構図になるわけです。やはり警視総監ともなるには由緒正しき家に生まれて勉学に励み、真面目に職務に取り組む、といったイメージがある気がします。ですが、そんな警視総監ですら解決できない難事件を、デュパンは楽々と解いてみせます。デュパンは名家出身ではあったものの紆余曲折を得て没落の一途をたどった紳士ですが、天才的な分析力を持ち合わせる。エリートとは決して言えないものの、没落の最中、逆境の中を生き抜くうえで、様々な知恵を身につけたのではないかと思います。

また、作中でデュパンは、「警視総監とそのお仲間たち(中略)が正しいのはねーその頭の作りが大衆の頭のつくりをそっくりそのまま代表しているということぐらいだ。」と言っています。つまり、警視総監は優秀でこそあれど、結局は大衆を理想化しただけに過ぎないということでしょうか。デュパンは、犯人の立場に立って、犯人の頭になりきって考えることが出来るので、普通の人には想像しえないような思考が生まれるのです。

 

つまり、「優秀」な人というのは、世間一般で“よい”とされていることをコンプリートした、まさにパーフェクトな存在である、と言えるでしょう。

一方、「すごい」人と言うのは、世間一般で理想とされている人間像とは限らないし、部分的に見てると人として問題のある性格を持ち合わせてはいるかもしれないけれど、だけれどもある部分においては常人離れしている存在である、と言えるのではないでしょうか。

 

まあ要するに、優等生タイプか天才タイプか、ということですね。

 

ちなみに、リーガルハイという裁判ドラマでは、主人公古美門健介の天才さと、ヒロイン黛真知子の優秀さがとても対照的でした。しかしこのドラマでは黛真知子もだいぶ変人扱いされていて、時には勝訴につながる超重要な証拠を取得するような、なかなか“すごい”要素も持ち合わせたキャラクターでした。ただし彼女は一般的な優秀な人と違って、空気を読む能力が著しく欠如している。だからこそ、己の信念だけを頼りに敵にぶつかっていき、それなりの結果を出している。

一般的な優等生から、“空気を読む”という行為を取り除けば、それもそれで天才タイプの人間になれるのではないかな、と思いました。