交通手段コスパ計算その①

横浜駅を経由して横浜国立大学に通う学生さんにとって、どの交通手段を使うのが一番良いかコスパを計算します。現実に即して計算すると死ぬほど複雑になるので、段階を追って、まずは

 

・スタート地点は交通手段の乗り場で、乗り物が動き始めた瞬間から時間を計る

・ゴール地点は横浜国立大学教育棟7号館

・機関の所要時間は検索した時一番上に表示されたものを採用する

・定期券は使わない

・機関での移動中は生産的な活動は出来ないものとする

 

この3つの条件に基づいて計算します。

 

相鉄線

所要時間:9分+18分=27分

運賃:174円

 

ブルーライン

所要時間:2分+22分=24分

運賃:206円

 

③バス

所要時間:29分+10分=39分

運賃:216円

 

所要時間と運賃共に最大である③バスはお話にならないので①②のみの比較としましょう。

 

①(27分/174円)

②(24分/206円)

 

引き算すると、②は32円多くかかる代わりに3分早く着くわけですね。つまり、時給900円で働いている学生は、早く着いた3分間で45円稼げる、つまり運賃の差を差し引いても13円のおつりがくるわけなのです。

 

よって今回は、②のブルーラインが最もコスパがよいことが分かりました。

横浜和田町経由で来てる人は明らかに損してることになるので、無理しないでブルーライン使った方がよいですよ。

 

もちろん、乗り換え時間、講義棟までの距離や定期券の値引き率など、その他諸々の条件があるので実際はもっと複雑でしょう。それは次回計算することにします。

ではまた今度ノシ

モルグ街の殺人(既読)

エドガーアランポーの「モルグ街の殺人」を読み終えました。

小説を読むのが実に久しかったので複雑な人間関係とか証言内容とか把握するだけでも精一杯ですね。最後の推理シーンを読んで初めて状況を把握できました。ちなみにそこそこグロテスクな内容でした。

中学1年生の頃はまっていたシャーロックホームズにも何となく似ているな、と思いました。どちらも、与えられた最小限の手がかりの中から最大限の情報を引き出す、凡人には到底理解しがたい分析力を持ち合わせているのですね。一方、ネタばれになるとアレなので詳しくは書きませんが、物事を分析するには必然的に知識が必要になってくるものですね。そう言えば塾講バイトの研修で「知識を問う問題は完ぺきなのに思考力を問う問題は全くダメ、っていう生徒はいますが、不思議なことにその逆はいないんです」と言っていたのを思い出し、納得しました。思考力というか分析力を発揮できるのは、その前提として知識の量も豊富だからなんですね。

やはり、より深い思考や洞察には、必然的に知識や経験が必要であることがよく分かりました。

 

というわけで前回の記事の続きですが、この小説に例の2つの評価を当てはめてみると、

優秀な人=警視総監

ずごい人=デュパン

という構図になるわけです。やはり警視総監ともなるには由緒正しき家に生まれて勉学に励み、真面目に職務に取り組む、といったイメージがある気がします。ですが、そんな警視総監ですら解決できない難事件を、デュパンは楽々と解いてみせます。デュパンは名家出身ではあったものの紆余曲折を得て没落の一途をたどった紳士ですが、天才的な分析力を持ち合わせる。エリートとは決して言えないものの、没落の最中、逆境の中を生き抜くうえで、様々な知恵を身につけたのではないかと思います。

また、作中でデュパンは、「警視総監とそのお仲間たち(中略)が正しいのはねーその頭の作りが大衆の頭のつくりをそっくりそのまま代表しているということぐらいだ。」と言っています。つまり、警視総監は優秀でこそあれど、結局は大衆を理想化しただけに過ぎないということでしょうか。デュパンは、犯人の立場に立って、犯人の頭になりきって考えることが出来るので、普通の人には想像しえないような思考が生まれるのです。

 

つまり、「優秀」な人というのは、世間一般で“よい”とされていることをコンプリートした、まさにパーフェクトな存在である、と言えるでしょう。

一方、「すごい」人と言うのは、世間一般で理想とされている人間像とは限らないし、部分的に見てると人として問題のある性格を持ち合わせてはいるかもしれないけれど、だけれどもある部分においては常人離れしている存在である、と言えるのではないでしょうか。

 

まあ要するに、優等生タイプか天才タイプか、ということですね。

 

ちなみに、リーガルハイという裁判ドラマでは、主人公古美門健介の天才さと、ヒロイン黛真知子の優秀さがとても対照的でした。しかしこのドラマでは黛真知子もだいぶ変人扱いされていて、時には勝訴につながる超重要な証拠を取得するような、なかなか“すごい”要素も持ち合わせたキャラクターでした。ただし彼女は一般的な優秀な人と違って、空気を読む能力が著しく欠如している。だからこそ、己の信念だけを頼りに敵にぶつかっていき、それなりの結果を出している。

一般的な優等生から、“空気を読む”という行為を取り除けば、それもそれで天才タイプの人間になれるのではないかな、と思いました。

モルグ街の殺人(未読)

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僕の周りを見るに、「すごい」って言われてる人は本当にすごいけど、「優秀」って言われてる人は上辺飾ってるだけで中身はすっからかんだったりする気がする

 

というツイートに対し、友人がエドガーアランポーの「モルグ街の殺人」という小説を紹介してくれたので、購入してみました。

 

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恥ずかしいことに小説を読むのは実に数か月ぶりなので今すぐにでも読みたいところですが、せっかくなので読む前後で見解を比較してみようかなとおもいまして、「優秀」と「すごい」というそれぞれの評価を比較してみることにしました。

※あくまで周りの人間を観察して得た個人的な見解ですので一般的にあてはまるかどうかは分かりません。8割方主観と偏見で書くのでご了承を。

※ちなみに僕が嫌いな人には優秀な人が多いので「優秀」という評価をdisる方向に激しく傾いておりますご了承ください。

 

まず、優秀という評価を受けるのがどのような場合におけるものなのか考えてみました。「成績優秀」という言葉がパッと浮かぶ当たり、よい成績をとること=優秀、と言うイメージは一般的に合っているのかもしれません。あとは、遅刻や忘れ物をしない、とか、先輩に指示されたことをきちんと聞く、とか、不断の努力を怠らない、とか、要するに基本的なことをきちんとやっていることに対して「優秀」という言葉が用いられるのかな、と思います。

一方、「すごい」という言葉はどのような場合に用いられるのでしょう。「ずば抜けて高い偏差値をとること」「スポーツで普通の人には出来ないプレーをすること」また、「(入試でも資格試験でも何でもいいが、)1日16時間の勉強を毎日続けること」などなど、が思い浮かびますかね。これはつまり、普通のやり方では到達しえないことを実際に成し遂げていることに対して用いられるのが、「すごい」という言葉なのかなと思います。

 

また、上記の状況に照らし合わせて考えると、「すごい」という言葉は誰が使っても同じく「すごい」という意味合いになりますが、「優秀」というのは少し意味合いが異なるのではないでしょうか。

大人から見た「優秀」という言葉は、基本的なことをきちんとやってくれ、上司や先生や先輩や親の言うことを聞いた通り実行に移してくれるという点で、扱いやすい、すなわち「いい子」ってわけなんですね。

一方同年代以下から見ると、基本的なことが出来るのはもちろんよいことではあるんだろうけれども、尊敬に値するかというと正直ビミョーなところ...

というか後輩から見たら、先輩がやるべきことをきちんとやってるかどうかなんて対して興味はないのであって、どちらかというと尊敬に値する能力や実績を持ち合わせているか否か、という方が重要なのではないでしょうか。

 

ではここで冒頭に戻って、人として中身があるのはどちらで、すっからかんなのはどちらなのか、という点を考えてみましょうかね。もちろんそんなの人によるでしょうし定義も曖昧なので無意味な考察と言ってしまえばそれまでですが...

 

優秀な人っていうのは、真面目にものごとをこなす能力さえあれば他に才能は必要ない。結果が出せなかったらその時はその時で周りが慰めてくれるし...特に大人からは好かれるだろうから、本人も気分がよくなる。同級生や後輩からは何とも思われなくても、別に貶されるわけではないから害はない。与えられた課題をこなすことが本当に自分や他の誰かにとって役に立つのか否かということを考えなくても、「優秀な人」の役割というのはこなせてしまうのではないでしょうか。

つまり、敷かれたレールの上からはみ出ることなく淡々と進んでいけば、誰でも「優秀な人」になれるのかもしれません。

 

一方、すごい人というのは、余程の才能を持ち合わせた人を除いては、莫大な量の経験(努力と言い換えることもできるが、楽しみながらこなしている人にとっては努力ではないので経験という言葉を用いる)か、もしくは特殊な経験を積んでいる。

ものすごく高い偏差値の人は莫大な量の勉強量をこなしたはずですし、とてつもないプレーをする人は莫大な量の練習を積んだはずです。上には書きませんでしたが、知識量がすごい人は本をたくさん読んでいたり、コミュニケーションが上手い人は色んな人と喋ってきただろうし(但しこの場合は原因と結果がそれぞれどちらなのか曖昧)、社会人とのコミュニケーションが上手い人は色々なアルバイトをしたり、インターンなどの社会経験を積んできたのかもしれません。

莫大な経験を積むのには成し遂げたい何かがあるからであって、それは敷かれたレールの上を進んでいるだけでは、莫大な経験に値する夢というのは見つからなさそうな気がします。また、莫大な経験を積むうえで、様々な試行錯誤を経たり、挫折したり、その中で自分の人生やこの世界について深く考えたりと、、、様々なことに思慮を巡らせるきっかけになるのではないでしょうか。

 

ちょっとここらへんで行き詰ってきました...

自分で書いていて、無理矢理差別化してるけど、実際「優秀」にも「すごい」にもどっちにも当てはまるだろ、というツッコミを入れたくなる部分も多々ありました。そこは人間が何かを思考するにあたってどうしても捨てられない「主観」というものの仕業だと思ってくださいませ。

 

じゃあ本読もーっと。

not debatable

大学のサークルでディベートやってるせいで色々と不便なことも発生するもんですね、はい。ディベートと日常会話は切り離して考えたい、1年生の頃はそう思ってたけれども、やはり思考の癖になると普段の会話にまで浸食してくるんだな、と思いました。

 

 

 

「では、学習観において重要度の高いものをグループで話し合って3つ選んでくださーい、多数決ではなくコンセンサスをとってくださーい

 

A.問題を数多く解いてみること

B.暗記すること

C.原理や理論を納得いくまで理解すること

D.絵や図を書いて考えること

E.はっきりした目標を決めること

F.人に聞く・質問する

G.他の人に教えること

H.勘・センス

I.知識を整理し、まとめること

J.繰り返し練習すること

 

 

はい?

こんなのコンセンサスとれるわけなくね?

学習観って何ですか?そもそも学習の定義とは?そして重要度とは、どのような背景における誰にとっての重要度のことを言っているの?ちなみに科目は?

「どれも大事ですね~」みたいな緩い結論を出すのならばこれでもいいけど、コンセンサスをとった上で3つだなんていう高度なディスカッションをするのには、前提条件が少なすぎる。こんな小学生に出すような課題を平気で大学生にやらせるとは一体今までどんな人生を送ってきたのか。

そして、それに対して何の疑問も抱かず取り組もうとする方もする方である。

 

学生1「私は目標を立てることが一番だと思います。個人的に、目標を立てないと動けない性格なので」

え、あなた個人にとっての重要度を話し合う場だったのですか、ここは。まあ確かに一般人にとっての重要度を話し合え、とは言われてなかったから間違いとは言えないけど、各々の個人的見解をぶつけあっていたらそれはコンセンサスどころの話はなくなるでしょう。

 

学生2「同感ですよ~、ちなみに私は、勘とセンスの重要度は最も低いと思いますね、だって勘とセンスがあっても動きだせるとは限りませんし」

え、「学習観における重要度」っていうのは動きだせるか否かで決まるものだったんですか、知りませんでした。まあこれも確かに、「学習観における重要度」という言葉の定義づけがされていなかったから間違いとは言えないけど、言葉のイメージ的に「動きだせるか否か」っていうのはあてはまらなくないですかね...

 

学生3「僕は問題数を多く解くことが大事だと思いますね、やはり良い成績をとる上では.....」

はい、完全に議論崩壊。この人にとっての「学習観における重要度」というのはよい成績をとれるか否か、って話なんですね。定義からして完全に食い違っているのでこれ以上の話し合いは時間の無駄でしかないな、って思いました。まあ職務ですから参加せざるを得なかったわけですが。

 

学生3「あなたはどう思いますか?」

ぼく「すみません、話し合う上での前提条件が足りてなくないですか?そもそも、学習観の重要度って何ですか?動き出すことですか?理解度を高めることですか?成績を上げることですか?科目は?教える人の立場で考えるんですか?生徒の立場で考えるんですか?................うんたらかんたら..................」

学生1,2,3「まあまあ落ち着いて、そういうの全部ひっくるめて、学習、ってことにしましょうよ」

ぼく「はぁ...(死んでくれ)」

ぼく「でも、先ほど学生1さんは個人的には目標立てないと動き出せない、っておっしゃっていましたけど、僕個人的には、目標を考えること自体が面倒なので何も考えずにとっとと取り掛かった方が上手くいく性格なんですよ、そこらへん人によって異なると思うので....」

学生1「そうですね~、みんな違ってみんないいと思いますよ~」

ぼく「はぁ.....(うるせーよお前の価値観なんて聞いてないんだよ)」

 

 

 

まあでも、いちいち人の上げ足ばかり取るような人にはなりたくないけれども、これから社会人として物事の解決などに向けて真面目な議論をする上では、意味のある議論を心がけることも必要なのではないかな、と思います。

作業効率化

近年塾講師のバイトのブラック化が激しいですね、企業と戦うのは難しそうなので、自分の工夫と努力の中で残業を減らして、さっさと帰りたい次第でございます。

 

先月までマクドナルドでバイトしていたのですが、マクドナルドでは(多分飲食店は全部そうだけど)あらゆる作業がマニュアル化されてるんですね。手順が明確に定められ、書面化されていました。

 

「マニュアル人間」とかって言う用語のせいで“マニュアル”という言葉に対してもよい印象を持たない人は少なくないかもしれません。不測の事態に臨機応変な対応が出来なくなる的な意味で。

 

でも、本当にそうでしょうか。1から10までの作業がマニュアル化されているおかげで、不測の事態で1から12までやらなければならなくなった場合にも、11と12の作業だけ考えれば対応できるわけなんです。要はこの11,12を如何に効率よく行うかが勝負どころになるわけです。一方、マニュアルがなければ1から12までの作業を全てその場で瞬時に考えなければなりません。それで上手くいくのならばよいものの、まあ上手くはいかないでしょう。結果が出せなくては元も子もありませんし、それではマニュアル人間以下ですね。

 

というわけで、不測の事態に備えるためにも、マニュアルは必要不可欠なのです。

 

ってこのサイトに書いてありました↓

plus-handicap.com

 

まあつまり、今僕が務めている塾にはマニュアルといったものがなく、全て口伝いで教わったことを何となく頭で記憶して何となく思い出しながら作業に移しているのです。僕がマクドナルドで一番時間を使ったのは、作業そのものではなく、次に何をすればよいか思い出したり、悩んだりする時間でした(バカだから全然マニュアル活用できてない)。

 

というわけで、塾のアルバイトで、指導とその前後にやらなければならないタスクを全て紙に書き出しリスト化したところ、今まで20分くらいかかってた作業が5分くらいで終わるようになったかな。

 

この調子で、一つ一つの作業の内容もさらに細かくマニュアル化すれば、より短時間で仕事を終わらせられるようになることでしょう。おしまい。

塾講師

個別指導塾の講師を務め始めて早一年、この頃生徒の小学生からの人気がうなぎのぼりというか、事務作業中も僕に興味津々で色々と聞いてきて作業がはかどりませんな、ああ困った困った。

 

小学生「ねえ先生、ポテトあげる!」

わたし「ありがとね、でも今授業中だからね、また後でね」

小学生「大丈夫だよ、こっそり食べちゃえば、誰も見てないよ」

わたし「ダメだよ、僕は誰かに見られようとみられまいと講師としての職務を務め上げるのだ」

小学生「そっかぁ...残念だなぁ…じゃあ授業が終わったら食べられるようにまた買ってくるね!」

 

はぁ...嬉しいっちゃ嬉しいんだけどこれが年の近い女の子だったらなぁ…うむ。

 

まあ僕が小学生にモテる自慢話は置いといて本題に入りますが、

 

この塾講師という仕事を務めるのに向いているのは、

 

「子供が好きだから頑張れる人」

ではなくて、

 

「子供が好きだろうと苦手だろうと仕事と割り切って接することが出来る人」

なんだと思います。

 

「子供が好きだから頑張ります」って言ってる人は嫌いなタイプの生徒が来たら頑張らないのね、はいはい。

 

「子供はみんな好きです!嫌いなタイプの子供なんていません!」って言うかもしれないし、僕だって一年前はそう思ってたけど、それはあくまで「素直な子供はみんな好きです!」っていうのを都合よく言い換えてるだけなんじゃないですかね、聞き分けの悪い子供がきたらそりゃ少しは、てかかなり、てかめっちゃ腹立つわ

 

まあそんな場合でも、仕事は仕事と割り切って私的な感情を押し殺して職務に徹することが出来る人、それこそが塾講師に向いているんだと思います。(学校の先生はプライベートな部分まで介入することがあるから、心から信頼し合える関係を築く必要があると思うので、これはあくまで塾講師に限った話)

 

でもこれを将来の職業に当てはめて考えると、「嫌いな仕事だけど頑張ります!」なんていいたくないよなぁ...やっぱり仕事は好きなことをやりたい。塾講師の件と何が違うのか考えてるうちに、ふと中一の頃の国語の授業で教わったことを思い出した。

 

「国の保護の下で健康で文化的な最低限度の生活を営むには、税金を払うだろ?つまり楽しい思いをするには、めんどくさいこともしなければならないのだ、税金みたいなものだと思え。」

 

個別指導塾における税金ってのは、生意気な生徒のこと?

って思ったけど、そうすると可愛い生徒に教えるために生意気な生徒も我慢して受け入れなければならない、ってことになる...

それは違うよな、先生の使命は、全ての顧客、すなわち全ての生徒の将来のために尽くすこと。そもそも生意気な生徒が税金なのならば、塾側が生徒の入塾の際に面接を設けて生意気な生徒をはじけばよいのだ。

って考えると何が税金なのか、っていうと、「もしかすると生意気な生徒を受け持たなければならない危険性」であって、じゃあ何のためにこの仕事をやってるかって言うと、「教えることが好きだから」ってことになるんですかね。

 

はぁ...これっぽちも面白味のない結論にたどり着くまでにだいぶ回り道してしまった… 

 

個別指導塾に務めるのは、子供が好きだからではなく、教えるのが好きだからです、はい。以上。

てか単純に家から近いし楽だし飲み会があるからだったわ、初心忘れてた

期末直前!

特に書くことはないのですが人生につかれたので投稿させていただきます。

 

3.14159265358979323846264338327950288419716939937510.......

日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動しわれらとわれらの子孫のために諸国民との共和による成果と我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こることの内容にすることを決意しここに主権が国民に存することを宣言しこの憲法を確定する。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポー、バルトロマイ、トマス、マタイ、ヤコブ、タダイ、シモン、ユダ

 

体系的に引き出せる僕の記憶はこんなものか...思った以上に少なくて残念。